A-LeroyのQueerなΨ難日記

Beauneへ行きたいA-のΨ難とかクィアなセクシャリティーとか

J.S.Bachの解釈・演奏の指標

今晩は、J.S.Bach BWV809 イギリス組曲第4番のMenuetについて考えてます。

Schiff András のCDを聞いているのだが、一つ一つの音、アーティキュレーション、そして全体の流れの美しさに感動をしつつ、

【彼は、原典版を見て、何を考えて、なぜ、”そのように“ 弾くのだろう??】

という強い強い疑問が溢れ出て、しかし、今の自分では全く解消ができず、切ないのです…>_<…

その演奏は、聴くだけならば素晴らしく心地よいのですが、納得出来ないので、そのまま参考にして演奏をしてみよう、という気分にもならず・・・

J.S.Bachは、ほんの一部にだけ、フレーズやシンプルな装飾音符をつけてます。
しかし、それ以外何にもヒントがないのです。 

どうして、あのシンプルな原典版から、あのような 演奏は出来上がるのでしょうか? それは、何を以って、真っ当で正しい(素晴らしい) 解釈と言えるのでしょうか?


映画「アマデウス」をふと思い出しました。
A.モーツァルトに憧れるサリエリ
サリエリが、神に次のように祈る場面。「どうか、どうか、たった一曲でいいですから、モーツァルトのように、貴方(神)に捧げるに相応しい曲を私にかかせてくださいーー、

それを叶えて下さるのなら、私は、貴方(神)にすべてを捧げます。あの人(その当時のサリエリの恋愛対象の憧れの女性) との恋愛の成就はあきらめます、いや、指一本触れません…。」


後半部分はさて置き、(この交換条件、全く意味がわからない。)

私は、サリエリの切ない気持ちに共感するのです。

そして、その後の場面。
キリスト教であったサリエリは、遂に、神に祈りを捧げることを放棄します。
「私は、貴方の(神の)音楽 (神童・天才 といわれたA.モーツァルトの音楽のことを指す) の素晴らしさを十分に理解できるのに、
こんなに、貴方(神)に曲を捧げるというのに、
・・・
私には、そのような曲を、たった一曲もかかせて頂けないのです・・・もう、貴方を信じることをやめます」というような言葉とともに、十字架を放棄するシーン。


私は、無宗教でして、神を信じないのですが、共感し、涙が止まらなかった・・・。
私は、J.S.Bach の作品、ピアニスト・チェンバリストたちの演奏を「素晴らしい」と感じるだけの感受性を持つのに、
勉強・研究の意思はあるのに、

 自分では「このように弾こう」という 指標、一種の解釈・演奏上の規則・法則 を 、比較的簡単で単純な構造の曲にすら、
全く 見いだすことが出来ないのですから。曲を理解し、このように弾こう、という指標があっても、実際にその通りに、一つ一つの音を美しく演奏するのはとても難しいことです。

いつか、勉強・練習を続けたら、私にも、J.S.Bach の解釈・ピアノ演奏 の指標、確固たる規則・方針 が見つかる日を信じることにして…今できることを最大限頑張ります。

佐々木 宏子 という現代美術の作家が仰ってました。「自然科学、音楽、そして、美術は 《同じ構造》を持つ と信じます」と。 美術、美学に疎い私には、深い意味はわかりませんが、お話を伺っていたところ、三者には、根底に、精神に 共通するものがあるはずだ、
というような意味にとれました。
私も、彼女の言葉を信じます。