A-LeroyのQueerなΨ難日記

Beauneへ行きたいA-のΨ難とかクィアなセクシャリティーとか

勉強出来る(環境がある)幸せ、を共感!

私は、最近は、基本、いつも「幸せ」を感じているのですが、それは、NOT「いつも気分が良い、楽観的♪♪」です。



不快なことも、悲しいことも、世の中の不条理や納得いかない事象(特に、少数派に対する偏見・差別、正義感の欠落、「普通、一般的には◯◯だから」という理由説明 など) に非常に激しい憤りを感じることも数多くあります。

そんな中で特に嬉しかったことがあります。

私には、京都にセカンドハウスがあり、京都の母がいます。最近、二回ほどそちらに帰ってきました(^^)  


(以前は、バイト先の「ぐろっと」が私のセカンドハウスだったのですが、  学校帰りに(シフトが入ってようがいなかろうが)そちらによって父と話してから帰る、という楽しみも (もはやRoutine) 閉店した今では、なくなってしまいました…。そして、閉店後は、店主一家のお家が私のセカンドハウスになりました。京都の母が「セカンドハウス、ちょっと遠いけど◯◯にあるので、私たち(店主の相方さん、息子兄弟)はいるのでいつでもどうぞ^ ^ 」と言ってくれたのが今でもすごく嬉しいのです。) 

そこには、友達であり、義理の弟たちがいて、
そのお兄ちゃんが、高校生なのですが、
数学の勉強相談に乗ってほしい、というのがきっかけでした。

彼は、農業高校の二年生で、数学が非常に苦手なようで、今週から始まる学校の定期テストで赤点を取りそうなレベルだったようです。彼自身は、とにかく【さっぱり !(わからん)】 を連発状態で、京都の母は、「とにかく◯◯は、本当に酷いから、ありさちゃん、びっくりしないでね。 まずは愚痴を聞いてもらえたら…」という感じ  (・・;)
彼は、数学科はもちろん、特に理系の大学受験を考えているわけでもなく、いやそれどころか数学を定期テスト以外のテストで使う予定が現時点では全くありません。

もともと彼は、「ありさお姉ちゃん」と慕ってくれていて、一緒にゲームしたり、おしゃべりしてきた仲ですから、カウンセリング、アドバイス、久しぶりの家族みんなでのご飯とティータイム、確認、復習まで一貫してとても楽しい時間でした

その楽しさ、幸せは、
友達とのワイン会で楽しく話している時のものと似ています。

しかし、今回のことが、特別に印象的だったことには、

京都母が「こんなに勉強する◯◯を初めて見た。問題が解ける解けない、頭がどうこう言う前に、まず机に向わない、ノート開かないから  ねぇ~」といい、中学生の弟ちゃんが笑って「お兄ちゃんからその言葉が出るとは・・・(゚o゚;;!??」と頷いていたら、

その高校生の彼が、

「【今は、とにかく、勉強ができるというのが幸せなんだ!】
 とにかくさっぱりで、もう、やる気ナッシー、わからなすぎてテスト中寝るしかない感じだったけど・・・(中略) 」

一同、唖然Σ(・□・;)
特に、二人は本当に驚きのようで、目をまる~くしてました(゚o゚;; 
鳩が豆鉄砲くらった感じ、ってこういうことじゃないでしょうか。


さらに、彼が
ありさお姉ちゃんが教えてくれたから、聞いたところだけは、大分わかったし・・・」云々。

「勉強が出来る(勉強する能力が素晴らしい、頭がキレる、秀才である、という意味では決してなく、【勉強する環境、教えてもらえる環境がある】ということ)  というのは幸せだ」


私は、近年、特に研究室入って以来強く感じてきて、私は、幸せになるためにStudy (勉強・研究)をしていて、学業を自由に出来るから、私は私であり、(非常に切ない時も、面倒だったり嫌なこともあっても、疲れて何もしたくない時もあるけど、
やはり) 学業 によって私は幸せを感じるのだ、と思います。

昔から「勉強嫌い」だった彼が、
たった二日で、それもまだ高校生で、こんなことを感じて、言葉として発していることに、私は、感動しているのです。 
家族のような彼と、「学業は基本、楽しく だよね! ♪(*^^)o∀*∀o(^^*)♪
私も、学業ですごく幸せだよ!」

と共感できて、とても嬉しいのです。

私は、この言葉を、大学に入り、非常に恵まれた環境で、過去や酷い劣等感から徐々に解放され、自由に、ありのままで、「楽しいから、やりたいから、興味惹かれるから!」と 勉強が出来るようになって、やっとこの言葉を意識し、発するようになったものですから。

ちなみに、私は、昔、J.S.Bachが嫌いでした。極力避けたいとまで思ってました。  ただ聴くだけでも好きではありませんでした。J.S.Bachは、ピアニストになるため→音大に行くため→受験のため に、仕方なく 弾いていました、 指導の先生が書き込んだアーティキュレーション、スタッカート、装飾音符の弾き方を、疑わずに、なんとか 怒られないように、できるだけ忠実に弾こう、と日々努力してました。 その当時は、ピアニストの演奏は、憧れであり、ただ美しく、輝き私を魅了し、努力してほんの少しでも近づこう、というものでした。
ある時のこと。私は、当時、無言歌集を勉強していて、Schiff AndrásのF.Mendelssohnの無言歌集のCDを聞いてました。私は、本当に好きでした、無言歌集もSchiff Andrásも。
非常に厳しい先生が、Schiff András をとても評価していて、「シフは本当に上手いよね、インベンションもきれいよね。」と仰ったのが印象的でした。当時の私、いや、近年までの私なら、Schiff Andrásと同じように、または、同じくらいのレベルで上手くJ.S.Bachが弾けたら非常に満足で、強烈な幸せと達成感を感じ、なんらかの公演を成功した直後には、もはや Ecstasy に達したとおもいます。つまり、神を信じない私ですが、自身が神がかっている、神としか呼べないような”なにか“ を感じるほどだろうと想像したのです。

しかし、
 今は、溢れでて、切ないほどに非常に強く強く 憧れつつも、
彼らは何を考えて、何を根拠に そのように 弾いているのか ? という疑問の対象でもあり、彼らと同じくらいに演奏ができたとしても、(それすら、私には、非常に実現が難しい夢でありますが)
決して満足しないでしょう。 自分自身に、その対象となる曲の確固とした解釈・演奏の指標ができない限りーー。

今回は、嬉しい、楽しいで終わる記事になるかと思って書き始めたのに、やはり、切ない記事になってしまった…。まぁ、いいか(^_^;)