A-LeroyのQueerなΨ難日記

Beauneへ行きたいA-のΨ難とかクィアなセクシャリティーとか

「幸せ」とは何?

例のinterdisplinaryワークショップで、

教育学研究科の所属で、哲学系の研究発表者が

本題とは離れて、最後に

「《幸せ》とは何か?」を聞いてみたい、議論してみたい」

と提示され、

みんな超困惑してて、沈黙……

しかも、いきなり「哲学では時々議論するのに、物理学では議論するのか、興味ある。物理学には《幸せ》という概念を考えられるか?」と言われ、

私は、内心「なんで、選りに選っていきなり物理なんだ!!ここにいる分野なら生態学でも化学でも心理学でもいいじゃないか?

ドキッ♡」

自分自身の幸せに関しては語れるんだけどね……

ということで、結局、私(統計・固体物性物理)が、まず口を開くことに。

私自身は、学業によって、つまり、自由の校風の京都大で物性物理の研究(この場合、学習・勉強・議論なども含むけど)を続けてる、自由に学業をして生きられるから幸せなんです! 私は、

幸せ= 最も興味の持てる学業  

なんです。

「自分が自分で、自由個体(物理学・化学で自由電子、遍歴電子はあるけど、生態学でこんな用語ないはずです) で独立に存在すること。偏見・差別を受けず、存在を肯定され、尊重されること。また、その他者を尊重できること。束縛されない自由な時間発展性」

を幸せだと私は思っていて……

自分自身の現在の幸せははっきり言えるんだけど、

概念となると、私も上手く言葉に出来ないです⤵︎

云々言ってみたけど、きっと

「相当に変わってるヤツだな」と思われただけだろうな。

しばらくして、

隣の部屋から、基礎物理学の教員が入ってきて、「物理学でも重要な概念ですね~(*^^*)」と発言して、「それはぜひあとでゆっくり聞きたい、議論したい」と答えていたけど、

その場では時間なくて、そのまま終わってしまった。あともそんな議論する時間はなかったんじゃないかな?

その場では言わなかったけど、

本当は、その場に教育学研究科の教員がいたから

教育による学生の幸せを話してみたかった……

私は、子供時代は、教育機関内での極めて不幸な時間を過ごし、病気になったこともある。さらに、学業に関しては、教育機関で教育者から人生最大の二回の精神的外傷を受け、挫折を味わい、「学業によって不幸」な状態だった。(全てではないけど。私は、基本希望して「勉強」していたし、勉強する習慣も普通にあって、進学希望もあったけど)

京都大に来て、まるで変わったけど、

「教育的配慮」がまるでない教員に複数出会ってきて、正直、かなり苦労もしたし、この分野の研究を辞めようか、本当に大好きな京都大を辞めるしかないのか……

とまで思った。

教えてくださいと頼ると「のたうちまわって考えるしかない」という返答にも困惑したし、

私ではないが、学部低学年の時に複数の友人が受けてたある講義の教員がまず第一回目に

「基本、講義聞かないでテストが取れるのがベストですね。まあ、この教科書使って講義やりますけど。」と宣言し、

教科書をものすごいスピードでほぼそのまま板書し、なんかごちゃごちゃある箇所についてコメントしてるだけ、としか思えない講義をしてる

という、かなり評判の悪い教員がいると聞いたりもした。

一回生前期、第一回目に、質問行ったら冷たく教育的配慮のない対応されて、先生が怖くなってその科目が本当に嫌になったこともあるし・・・

「基本、大学院では《教えない》のが教育。

学生のCreativity 創造性 を伸ばすのが、教員。

自分の研究テーマを見つけたり、参考にしようとするために他人の論文を読むのではない。世界中の論文を全て読んで、自分のCreativeなものが、現時点では世界中の誰一人もやってないことを確認するために他人の論文を読むんだ。

本とか論文とか研究発表とか何かを見たり聞いたり教えてもらった途端に、個人のCreativityは失われる、研究は《創造的な行為》なんだから、

本当に何も思いつかなくてる困ってる時こそ、一人っきりで沈思黙考し続けないといけないんだ。

学部生ならともかく、研究科で本なんて読んで勉強してる暇なんて基本はない。研究をやるところだ、勉強なんてしてる暇ない。まして、分からないことがあって悩んでる時にそれを解決するしようとして本を読んでも無駄。講義受けて、本読んで納得しないから、やってるんじゃないか?(私「はい、確かにそうですが………」)

まあ、時間があれば、いろいろ読んでストックしておくことは意味はあるけど。

本になってる時点でもう多くの人がやってきてるんだから。」

というような発言には本当にものすごく困惑した(泣)

これに対して私が納得出来ないこと、幾つかの反論が以下の感じ。

→世界中の論文なんて読めるわけないじゃないか?

(極めて珍しい手法の実験をサポートするような理論をやってる同級生が、キーワードを5,6個入れて検索したら実験・理論合わせて世界中に10~20本くらいしか見つからなかった、という例はあるが、

「free energy spin frustration triangular system

entropy phase transition 」で検索すると莫大に出てくるし、物理学の中で実験か理論かではなくて、数学、情報、化学、生物学系などなど本当にいろいろ出てくる)

ただただ沈思黙考する代わりに、少しでも関連しそうなことを勉強して解決しようとするのは、より自然な行動ではないの?

研究が創造的な行為であることは認めるけど、

その《創造的な行為》のために、過去に何がされてきたのか勉強すること、習作をすることは何故おかしい?(複数の教員が、反論してた。

過去~現在にされてきたことの勉強と習作なしに発展、創造的な研究はありえない!化学とか物理学は積み重ねの性質が強い、って言われるけど、生態学、数学、経済学、心理学、美学……

Sience ならどの分野でも、いやArtでもそうだよ! (と、固体物性物理学の教員は反論))

 

本を読んで勉強するのは学部生(教員だって、研究するために本を読むよ!と別の教員が「間接的に私も非難されてる」とかなり怒って激しく反論してた。)